「論座」の小川淳也氏の記事を紹介します

皆さま、おはようございます。インターネット写真販売のふぉとすてっぷ、代表の嶋です。

「論座」という朝日新聞のデジタルサイトに衆議院議員の小川淳也氏の記事があり、じっくり拝読させていただきました。とてもきちんと整理されていて、桜を見る会問題の本質や私が漠然と抱いていた野党への不満に対して、「たしかにそういうことですよね」とすっきりしたので、私の備忘録としても記事を残しておきたいと思いました。ネットの記事は一定の期間が過ぎるとページがなくなって、リンクを貼っておいてもリンク切れになったりしますから、ボリュームはありますが、全文を紹介させていただきます。興味のある方は最後まで読んで欲しいと思います。

桜を見る会問題 我々野党の責任を嚙み締める

国家国民への真摯な思いから湧き上がる正義感、倫理観、使命感、責任感に基づく追及を  小川淳也 衆議院議員

 衆議院予算委員会の審議が続いています。

 昨年は統計不正、以前は文科省の天下り問題、こうした政府の不祥事や不正を質すことは野党の大きな役割の一つであり、大切な職責の一つと心得て、徹底的に調べ、準備をした上で質疑に立つよう心がけています。

ときに野党は追及ばかり、反対ばかりというご批判の声もあります。これ自体は真摯に受け止めなければなりません。

 一方、政権に法令違反の疑いがかかった場合、その疑いを晴らさないまま、政策、つまり法令の執行や改廃を論ずる資格はない。基本的にここは野党が手を緩めてはいけないところです。

 特に現在、新型肺炎対策に国を挙げて取り組んでいる時期であり、この切迫した課題に対するスタンスとして与野党の別はありません。全国民が高い関心を持つべき国家的危機管理の局面であることはよくよく心した上で、政府の不正や不祥事を国会でどう扱うかを含め、厳しく自らを律しなければなりません。

 しかし、戦争を始めとした国家的な重大危機や様々なハプニングが、その時々の政権の不都合から目をそらすために利用されたり、本来向き合うべき課題への国民の関心を失わしめたりしてきたことも歴史の常であることを前提に、いついかなるときも冷静沈着かつ厳正に政権と対峙する必要があります。

公私の区別がつかなくなった総理

 まずこの公的行事の肥大化、いわゆる「桜を見る会」の問題を論じるに当たり、ここまで国民の関心を引きつけ、私ども全野党で真相究明、責任追及に及ぶまでに至った立役者の皆様に心より敬意を表したいと思います。

 特に初動段階でこの問題に着目し、地道な調査と報道を重ねた新聞社、共産党の田村参議院議員、宮本衆議院議員、機関紙赤旗など、関係者の取り組みに心から敬意を表します。

 大きな注目を浴びた課題に取り組むことよりも、注目される前から目をつけ、地道な取り組みを進めることの方がはるかに難しいことです。そのことがよくわかるだけに、こうした成果に繋げた関係者の皆様に重ねて敬意を表します。

 その上で国会での本格論戦が始まった今、全野党、全会派を挙げて責任追及と真相究明を進めるべく、私自身も質疑で常に、この問題の一端を取り上げています。

 公的行事の私物化を見るにつけて、やはり本質はかつての森友問題や加計学園をめぐる問題と軌を一にすると感じます。

 総理は人が良いのか、悪いのか、ご自身の近親者をかわいがるあまり、自らの絶大な権力への無自覚さとあいまって、次第に公私の区別、見境いがつかなくなり、自制と抑制を失っていく。ある種の方向感覚を失っていくのではないでしょうか。

 結果として近親者に多大な利益をいびつな形でもたらし、一方で、国有財産や許認可権限、予算の使われ方をゆがませて、国民に甚大な被害をもたらすのです。

 これは一連の問題に例外なく見られる構図です。

4つの法令違反の疑い

 私自身、法律的に見て、今回の問題は四つの法令違反を議論する必要があると考えています。

 まず一つ目は、予算執行の姿を、本来の趣旨と異なる形で膨張させ、ゆがませた財政法違反の疑いです。

 二つ目は、総理の地元山口県の有権者に公金を使った供応接待、すなわち花見会場で提供される飲食やお土産等を含め、特別に地元有権者に便宜を図り、利益を与えた公職選挙法違反の疑いです。

 三つ目はこれとセットで行われた、いわゆる前夜祭と言われる後援会行事にかかる数百万円は下らない支出が、本来記載すべき安倍後援会政治資金収支報告書に一切記載されていない、政治資金規正法違反の疑いです。

 そして最後の四つ目は、一連の疑惑を逃れるために、証拠となるべき招待者名簿、推薦者名簿等の公文書を即座に廃棄してしまった公文書管理法違反の疑いです。

 これらは相互に絡み合いながら、全体として法令違反の疑いの構造を作り上げていると思っています。これら法令違反の疑いに対し、総理は法令の執行・改廃の総責任者として、国民に対する真摯かつ誠実な説明責任を負っています。

「収支が赤字の事業」は記載できない?

 まず、政治資金収支報告から見てみたいと思います。

 総理の収支報告書には年3回程度、東京で行う政治資金パーティーと毎年地元下関や長門で行う新年会が記載されており、これらは毎年適正に法令に従って行われていることがわかります。

 ところがこの桜を見る会前夜祭だけが、毎年、決まって報告書に記載されていないのです。

 同じ後援会主催の行事なのに、なぜ前夜祭だけが収支報告書に記載されていないのか。他の行事がきちんと記載されているだけに、逆に不自然なのです。

 あえて言えば、安倍家は伝統ある政治家一家です。事務所スタッフも含めて熟練の人たちが多いはずだと想像します。従って政治資金規正法の制度や趣旨、公職選挙法の実務等を十分理解し、慎重に運用していると思われるのです。

 従ってこれらが単なるケアレスミスや、意図的でない偶然の不記載ではそもそもありえない。すべてには意図があり、目的がある。そう考えるのが自然です。

 この点総理は参加者の参加形態を問題にし「前夜祭は一人一人の参加者が自ら契約主体としてホテルに集い、会費をホテルに払っている。ホテルからホテル名義の領収書を受け取っているから、後援会に収支は発生していない」という大変苦しい答弁を繰り返しています。

 800人もの人がホテルと一人一人契約するはずがありませんし、これ自体が極めて理解に苦しむ珍答弁です。はっきり言えば単に屁理屈の言い逃れだと思います。

 しかし、問題はこうした参加者の形式や支払いの形態が、事の本質ではないということです。後援会収支が発生しないような形式をあえてとった理由、あるいは取らざるを得なかった理由が、もっと言えばそう説明せざるを得ない、実質的な理由が、他にあるのではないかということです。

 偶然の不記載や意図的でない記載は安倍家の伝統からして想定しがたい以上、そこには確信犯的かつ実質的な理由を見出さなければなりません。

 ここでふと思うことは、収支報告書に適正に記載されている東京の政治資金パーティー、地元の新年会には共通点があることです。それは毎年、収支が黒字であるという事実です。つまり、かかった経費より多くの会費を集めているので、少なくとも安倍事務所による有権者への利益供与を疑われることはないのです。

 そうすると、もしかしたら収支報告書に記載しない、あるいは記載できない事業とは、収支が黒字ではなく、赤字の事業なのではないか。すなわち集める会費以上に経費がかかり、飲食や催しを実施する際に、何らかの形で安倍事務所、安倍後援会から差額を補填せざるを得ない事業が存在するという構図です。

 収支が黒字の事業は堂々と報告書に記載し、収支が赤字の事業は記載できない。そこで参加者が一人ひとり主体的にホテルと契約し、参加している、との苦しい詭弁、珍答弁に追い込まれているのではないか、ということです。

 国会質疑の中で総理は私に対し「これは小川さんのレッテル貼りだ」と、よく使われるフレーズで反論されました。

 しかし私からすれば「こんなに簡単に剥がせるレッテルはないはず」であり、総理はそうすべきだと言い返したのです。

 ホテル会場の見積書、領収書なりを取り寄せて開示すれば、たちどころにその疑念は晴れることになります。こんなに重大な疑惑を、こんなに簡単な方法で晴らすことが出来るとすれば、それを隠して行わない理由は一体何なのか。返って不思議、不自然でなりません。

 やはりそこには何らかの開示できない「実質的な」理由があるのではないか、と疑われても仕方ないのです。やはりこの疑われる状況を放置し続ける総理自身に、大きな責任があると言わざるを得ません。

 政治資金規正法違反の疑いは、実は公職選挙法違反の疑いから来ている。「書かない」のではなく、「書けない」のではないかと疑われる。両者の問題は一体不可分、実質面と形式面において、切り離すことの出来ない疑惑だと思うのです。

森友以来、一遍の良心も放棄した官僚たち

 財政法違反と公文書管理法違反の疑いも、またセットの問題だと見ています。

 桜を見る会は、招待者数が年々増え続け、予算執行も膨張したことに加え、反社会的勢力やマルチ商法の主催者など、事業の趣旨から極めて不適切な人々も招待されていた可能性が濃厚です。

 この異常事態の証拠を隠蔽するために、招待者名簿や推薦者名簿など証拠となる公文書を直ちに廃棄するしかない。ここに公文書管理法違反の疑いがあるのです。

 つまり不適切な形で予算を執行した財政法違反の疑いと、その証拠となるべき公文書を次々と廃棄した公文書管理法違反の疑いも、また両者一体、不可分の疑惑なのです。

 私自身かつて霞が関で勤務していた人間です。確かに政治や行政の現場には、当然、外部から聞かれたくないこと、言いたくないことが少なからずあるのは事実だと思います。

 しかし、例えば権力を監視する国会やメディアから尋ねられた際、どうすれば嘘はつかなくてすむか。嘘にならない範囲内でギリギリ攻撃を防御し、責められるべきを最小限にするため、いかに受け答えすべきか。そこで悶絶し、苦しむことはあり得ることであり、ギリギリ容認できる官僚の態度です。

 しかし、森友問題以来、もはやそんな一遍の良心、最後の踏ん張りまで放棄してしまっているのではないか。そう思わざるを得ない官僚の対応が続いています。

 大切な招待者名簿を一年未満で廃棄できるよう、無理やり規則を改変したり、あるいは規則を改変していない場合、推薦者名簿を一般の日程表や業務管理表と同程度の価値の低い文書と無理やり認定したり、といった具合です。

 とにかく政権の尻ぬぐいのためなら、法令そっちのけで、なりふり構わず公文書を廃棄する官僚の姿に嘆かわしいものを感じます。

 これは政権の自己保身であると同時に、やはり官僚自身の自己保身です。

「保身」と「モラル」の間で葛藤を

 一職員にすぎない彼等への個人攻撃には賛成しません。もちろん彼らの抱えている矛盾や辛さ、情けなさも理解し、想像しなければなりません。

 しかし、一方で極端を申し上げれば、かつてナチスドイツの大虐殺は、必ずしも悪人によってなされたのではないと言われます。「悪事は悪人によって行われる」ものでは必ずしもない。むしろ「悪事は普通の人々、善人、凡人によって遂行される」。これがあの大虐殺の最大の反省という歴史をすら振り返らねばならないのです。

 辛くしんどいことですが、やはり一人の心ある人間として、組織の保身と、自分自身のモラルとがせめぎあい、葛藤することを求めたいと思います。最低限の苦しさ、一遍の良心とのもがくような闘いを求めたいと思います。

 それは、結局何のために官僚を志したのか、という自らの原点に問いかけることにつながります。

 もちろん人間社会ですから、上司の顔色を伺うことも必要でしょう。権力者に擦り寄ることが得になることもあるでしょう。しかし、本来は何のためだったのか。初志、原点は何だったのか。

 政権中枢やそこに仕える官僚の視野の中に入っているのは保身だけ。どこを探しても、そこに「国民」が見当たらない、そう感じざるを得ないことは本当に情けなく、悲しいことです。

 長期政権の歪み・弊害とは、言い古された言葉ですが、正に「魚は頭から腐る」。頭が腐れば、腐敗は尾まで及んで全身から悪臭を放つ。それをまざまざと見せつけられている思いです。

野党は「真の憂いからくる攻撃」を

 我々野党に所属する議員は、こうした事態を正す役割を担っており、心して実態解明と責任追及に向けて、厳しく取り組んで行かなければなりません。

 同時にこうした「追及国会」を通して、私はもう一つ願うことがあります。国会質疑が、端に政権の揚げ足取り、政権の弱みをつき、「追及のための追及」に興じることがあってはならないということです。国民からそう見られれば、むしろ野党の側が「敗北」しているという観点です。「与党も与党だが、野党も野党」と言われたのでは、「与党の勝利」。野党はその職責を十分には果たしていないということです。

 では、野党の国会追及に何が求められるか。真に目指すべき追及の姿とは一体どんなものか。

 それは真相究明や責任追及は、極めて重要であるが、通過すべき一里塚に過ぎないという視点です。あくまで国会質疑で目標に置くべきは、私ども野党が、政権の受け皿として、担い手として国民から認知されることであるべきです。それにふさわしい知性と品性、風格、真摯さ、誠実さを示さなければならないということです。

 これは一朝一夕に出来るものではありません。結局その政治家が、なぜ政治を志したのか、長年何と闘い、何を目標として努力を重ねて来たのか。その総合力が如実に現れるのが国会質疑である、ということへの恐れと自覚が求められます。

 到達地点としては高過ぎる目標、高過ぎるゴールですが、あくまでここに目標を置くべきだと思います。従って具体の質疑の際には、一人の政治家として真に国家の現状を憂いていることが伝わらなければなりません。攻撃のための攻撃ではなく、真の憂いからくる攻撃であり、その奥底には国家や国民生活に対する、真摯な思いが確固として存在し、そこから湧き上がる正義感、倫理観、使命感、責任感がそうさせている。そのことが質疑を通じて伝わらなければなりません。

 さらに言えば、敵対する与党や官僚もまた、複雑な環境と心理を抱える生身の人間である、ということへの思いやりや敬意、慈しみをすら備えるべきだと思うのです。

 同じ時代に同じ国で生きる、生身の人間同士として、互いの共感や弱さ、至らなさへの同情があってしかるべきだと思うのです。

 従って、いかなる厳しい追及の際にも、相手に対する最低限の尊厳や敬意を失ってはなりません。自らのこうした、わきまえ、矜持を保ってこそ、活きる追及、活かされる質疑になる。もちろん咎められるべき事象に対しては、決して手を緩めず、厳しく、激しく政権を追い詰める。両者あいまった真摯な姿勢こそが求められると思うのです。

 そのことを通してのみ、野党は単なる揚げ足取りの追及屋ではなく、真に国家と国民生活を憂う、次代を担う政治的資産、政治勢力として国民から認知されるのではないかと私は思うのです。

栄えある行事の歴史に重大な汚点

 最後に、この桜を見る会の歴史に少し触れて、稿を終えたいと思います。

 この会は、明治初期、正に鹿鳴館時代に皇室主催で始まった観桜会を起源としています。当時の悲願は不平等条約の改正。明治の元勲たちはとにかく西欧列強に認められることを願って、欧州の野外パーティーの慣習に倣い、外交使節をもてなし、国際親善を深めたのです。

 その後戦争の影響で一時中断し、敗戦、独立回復後の昭和27年、当時の吉田茂首相が今度は首相主催で「桜を見る会」を復活させました。しかし、当時の心象風景も明治の時代と変わらぬものだったのではないでしょうか。

 長い戦争と敗戦の屈辱、占領の日々、そしてようやく独立を回復し、国際社会に復帰した日本国。その後の復興と国際社会における新たな地位の獲得をみんなで夢見て、誓い合う行事だった。その風景が目に浮かぶような気がします。

 こうした長い歴史を持った行事も、何度か中止されました。1960年の安保闘争による大混乱、そして後の阪神淡路大震災(1995)、東日本大震災(2011)、そして北朝鮮のミサイル厳戒(2012)。こうした国家と国民生活を根底から揺るがしかねない、危機管理の際にのみ、やむなく中止されて来たのです。

 しかし、今年の中止は、ときの内閣総理大臣がこの行事と予算を悪用して、自らの地元有権者や近親者をもてなした、公的行事と国家予算の私物化疑惑です。栄えある行事の歴史に重大な汚点を残したことになります。この会に歴代招かれてきた功績功労者の社会的地位や名誉をも大きく傷つけた可能性があります。

 もはや安倍総理の言う「私の責任」において、今後「全般的な見直し」を行うことが、果たしてできるのか、総理にその資格があるのか、という問題すら生じていると思います。

 仮に来年4月に安倍総理の手によって、桜を見る会を再開するとしても、果たしていかほどの方々が、快く、気持ちよく参加できるだろうか、という問題もはらんでいます。

「全責任は野党にある」とあえて言いたい

 しかし、最後にこれらすべて政権のおごりやゆるみ、その全責任は我々野党にある。あえてそう言い切りたいと思います。

 野党が政権の受け皿として認知されない限り、国民は安倍政権を支持し続ける以外に選択肢はないのです。ある出版社の若手編集者が、まるで「DV夫にそれでも従わざるを得ない悲惨な家族(国民)の姿ですね」と言われ、はっとしました。

 年末年始の野党合流騒動も無残にとん挫しました。この情けない野党の惨状が、こうした問題のすべての遠因である。多くの有権者に対して申し訳が立たない、責任を果たせていない状況から脱せられない、私たち野党こそが万死に値する。

 我々はそれほどの危機感と責任感を、この桜を見る会の問題を通して、胸に刻まなければならないと思うのです。